2018.08.01の日記
ミルフィーユフィクション
めっちゃ聴く。
BoAを早回ししただけのHookが、骨太に曲を支えている。子どもがオモチャを触ってたらとんでもない魔術が発動した、みたいなことが起きるから音楽って素敵だ。
チープさや手っ取り早さだけを称揚したくないけど、力をゆるく抜いたせいで生まれてしまった美しさは、たまらない。
これはpunpeeのremix。原曲を作ったこえださんは、さいきんTwitterで会社の文句とかばっか言ってる。
きっと、あまりにもたくさんの人が、明日の地獄に怯えながら眠りについてる。大人も子どもも変わらず。特定の誰かを恨んだり憎んだりすることはめったにないけど、それなりの数の人類を覆うどうしようもなさとかやるせなさに対して曖昧な怒りが沸く時がある。
そういうもんだと薄笑いながら生きたくないけど、自分ひとりじゃどうにもならないから自分だけでも良く生きたい。周りのひとを幸せにすることから始めないといけないし。
ひとの気持ちを考えすぎると何もできなくなる。
でもわかった上でバランスをとるなんてそうそうやれないから、間違えればいい。
麺類考えたひとはすごい。細く長くした穀物をすするか? 普通。それくらい原始的で狂った発明が、まだどこかに埋まってるはずだ。
前は、どいつもこいつも老人に見えた。今は自分がそう見えてるんだろうか。
xxxtentacion
デビューアルバム"17"を聴く。眠りながら。
昔から、寝つきが悪かった。
眠くないのに、まだまだ遊びたいのに、布団の中でじっとしてるのが嫌だった。眠ることの幸せも知っているつもりだけど、起きてるうちにやりたいことが多すぎる。
働き始めてから余計に寝つきが悪くなった。運動不足か、遊ぶ時間の足りなさに駄々をこねてるのか…。
電気を消してから30分以上たって、うんざりしながら、歯を磨いた後なのに煙草を吸いに立つこともある。
そんな夜はこのアルバムが子守唄に。
掠れてローファイなピアノやギターのトラックに、落ち着いたメロウなラップが乗る。これ以上どこも削ぎ落とせないような、わずかなサウンドが、ぼうぼう光る骨みたいに優しく突き刺してくる。
1曲が2分程度で終わるのもいい。SpotifyやApple Musicで聴ける。
「孤独」を感じる音楽に惹かれるみたいだ。
アシッドフォークとかフリージャズとか、限界まで削ぎ落とした音楽、誰に向けてでもなく鳴っているような音楽に胸打たれる
聴いていると意味のわからない焦燥感から解放される。
だいたい、昨日の自分と今日の自分でさえまるで違う日があるんだから、変な自分像を仮定してしがみついていたら馬鹿みたいだ。
サマーシンフォニー
10時くらいに寝落ちして5時ごろ起きる。
よく眠れるように、毎晩ぬるめの湯をバスタブに張って、雑誌をビショビショに濡らしながら半身浴をしている。そのおかげで早く眠れるようになってきたみたいだ。まるで年寄り。
散歩する。
神戸で買った高級感のある便所サンダルみたいなのを履いて、明朝の街へ。
ビジネスホテルの清掃員と同じ速度で駅の近くまで行って、24時間営業の、ファストフードの納豆定食を食べる。
道に合わせて家を建てるのか、家に合わせて道を敷くのかわからないけど、道が突き当たって曲がると見えなくなって、そこに半身が不安定に見えている、そういう景色は意外と見ていて飽きない。
家に帰ってきて、コーヒーを淹れて日記を書く時間さえある。ゴミ出しにも間に合う。でも穏やかであるというのは何も起きないということでもある。
悲しみとか苦悩がつきものだとしても、波風立たない人生よりはカオスや浮き沈みの船に乗っているほうが楽しいよね、とセカンド自分がつぶやいている。
カセットプレーヤーを買った。わざわざ面倒なアナログ再生を始めた理由は、手に取ったり目に見えるものが恋しくなったからかもしれない。
テープを聴くのは幼稚園児以来。あの頃はカーオーディオもテープ。ツタヤで借りたテープを、自宅のカセットデッキでダビングしていた。ダビング自体がアナログな直接録音だから、空間的なノイズがそのまま記録される。Whiteberryの「夏祭り」がうるさくて停止したら、いま録音してたのにまたやり直しだ、と母親に文句を言われた。
CDがもはやブラックボックスだったのだ。盤面にキズがついても一応聴けたりするし。あの虹色に輝く円盤からどうやって音楽が編み出されているのか、今でもいまいち理解してない。
中目黒の大きなカセットテープ屋で、3つテープを買った。
久しぶりにテープを聞いて思ったのは、意外と音圧が高くて、いろんな音が聞こえること。低音がしっかり出ること。逆に高音がカットされがちになるため、印象として温かみのある音色に聞こえる。モノラルスピーカーのプレーヤーを使っていることも一因かもしれない。
ふだん、イヤホンで分かれた音を両耳で聴き取り、頭の中で繋ぎ直している自分に、モノラルスピーカーの音は優しく寄り添ってくれているような。「鉄は熱いうちに打て」とかいうより「アイスクリームは溶けないうちに届けろ」と思うほうが頑張れる。
ペットショップが苦手。動物園くらいの広さでエサや環境を保証しているのなら、楽しむことができる。それとも、言い方は悪いけど"見世物"と割り切っているから?
ペットショップは、あの小さなゲージの中で、明らかに居心地の悪そうな顔をしている彼らを見るのが耐えられない。
しかもそれを見る人間たちが、ほんとうに無邪気に「かわいいね」とか言っていたりして、それでいいのか、と。人の楽しみに水を差すようなことは言いたくないけれど。
他界したけれど、14,5年、猫を飼っていた。
飼いたくて飼った。正確には保健所に引き取られそうになっていたところを拾った。
が、「猫のほうから飼ってくれと頼んだわけじゃなくて、自分の欲望で飼ってるんだから、ちゃんと世話をしなくちゃいけない」というようなことを子供心に思っていた。
父親は「何言ってんだ、保健所で殺されそうになったところを助けてやったんだから、うちは命の恩人じゃないか」と言っていたけれど、それも人間の理屈だと思う。保健所を作ったのも人間だし。
人間の理屈で動物を理解するのは動物に失礼だと思う、だからNHKの"ダーウィンが来た!"みたいに、動物のしぐさに人間がアテレコするのが嫌だった。
バナナワニ園は最高だったな。
ワニ以外でいうと、植物園になぜか現れる石膏型の天使像の集団とか、さまざまな睡蓮の葉が浮かんでいる池にエリック・サティみたいなアンビエントが流れているところとか、なんともいえない味があった。
ひとには、体力とは別のハツラツさを保つ源があるはずだ。
雑誌をビショビショに濡らしながら入浴している時や、うとうとと眠気をごまかしながら電話している夜や、掃除したばかりの部屋で焚くお香の香りや、無駄に早く目覚めた朝に吸う起き抜けの煙草など。
涼しさが街に降りてくるころ、名残惜しくもある夏の浮かれ気分をよそに、気分は別ベクトルに上向いていく。
ジャズで言うところの“ブルー”や一種のcoolness。冷たいエレクトロニックなピアノの音色が似合う季節がやってくる。
アンニュイさのなかで温めあうことの喜びや、虫や植物が隠れていく過程のなかで際立つ、自分という1本の樹の太さ具合が、同じ暮らしを繰り返しているだけのはずなのにハッキリと意識を明るくさせる。季節の変わり目はたしかに未来を連想させる。新しいことをしたくなってくる。
頭皮から髪へと浸透する天然のトリートメントは、睡眠中に分泌されるらしい。
快楽ともネガティブともほど遠い他愛もない妄想が、いろんな影になって動き始める。小さいころ妖怪の行軍を思い描きながら眠りについたら妖怪の夢を見たことがあった。その日によって、夢に手招きする影が交代するわけだ。
さいきんはしょうもないYouTuberをスマホで流しながら、けだるい眠りに落ちている。だらだらと退屈で、徹底的に無関心なおしゃべりほど眠りに誘うものはない。それを知ったのは幼少のころ見たNHKの教育番組だったのだ。