2016.10.15の日記

寒すぎて、穴が開いて外に着ていけなくなった灰色のカーディガンをはおってスリッパまで履いていたというのに、昼間から猛烈に暑くなってきた。

洗濯物を取りこんでいると太陽がじりじり肌を焦がす。干すときには巣から落ちそうになってた蜘蛛がベランダの外に新しい巣を張ってた。

 

5時間くらい掃除。漫画と雑誌を紐で縛って、いつでも捨てられるように。

 

古本ばかり買っているから値札をはがすのも面倒だし、売ったところで二束三文だからもういい。もったいないとか欲しい人にあげるとかいってるうちに繁殖するし。

最近買った、くらいに思ってた本がありえん深さから出てきたり。

積み上げた「資源ごみ/古紙」が一山いくらかなんて計算することは絶対になく。

比較的キレイなのは古本屋に持っていってもいいけど。消滅して別のパルプ材に変わるのなら万物流転の類の感慨も。

 

45Lのゴミ袋いっぱいまで細々したものを捨てたら少しはすっきりしたけど、まだ収納から飛び出た本やらCDが机と段ボール箱の上を占拠している。

 

無印良品の売り場、POPEYEとかに出てくる無闇やたらにクリーンな部屋、そういうのに憧れるというか、整った部屋で過ごしていたら不思議と人間変わるんじゃないかって憧れみたいな。畳数とものの数から言って無理だけど。

 

サンマルクカフェへ行った。

 

ちょっと店内を見渡してみると、1人で喫茶店にきてる人が意外と少ないことに気づく。

次にどこに遊びに行くか話し合っている女子高生らしき2人組、やたらと親族の悪口を言い合っている年配の親子、太り気味の外国人を中心に奇妙な距離感で世間話をしている年代も国籍もばらばらの4人組。

いつだって時間を持て余したひとが喫茶店を訪れる。RPGの酒場にいるNPCのように、宙ぶらりんなことを考えたりとりとめないことを話したりしてるに違いない。誰だって誰かにとってのNPCだから、俺は知らない人に話しかけられてもなるべく小粋に応えたいと思っている。最近呼びかけられるのはほとんど「火ィ貸してくれませんか」ばかりだけど。

 

自分の喫茶店を開いたら、オリジナルのジンジャーエールを作りたい。それかハッカを混ぜた爽やかなソーダ水。コーヒーは舌触りよりも香りに重きを置きたい。夜だけは酒を出してもいい。

 

フードメニューはチリと、トマトを挟んだサンド、ランチメニューだけカレーがあれば十分。3品極めるだけなら1年でたどり着けるんじゃないか。

 

音楽は午前中にはニック・ドレイクやティム・バックリーあたりの朝焼けを感じるアシッド・フォーク、午後からはオーネット・コールマンとかの冬を感じさせるジャズを流したい。

どこから読んでもいいような詩集や句集と、1冊で完結するマンガを数冊置いて。

カフェラテ色のベージュに染めたキャップと、半袖Tシャツ、長袖Tシャツだけを少数作成し、インターネットでも販売する。

3回目に来てくれた常連客には、何も言わずアーモンドとキャンディを飲み物に添えて置く。窓ガラスはあえて曇らせたままにする。

トイレにはオーストラリア土産のよく意味のわからないオブジェを1つだけ置いておく。

店のTwitterにはその日の短い日記や、店のある街並みについて書く。

アルバイトには年齢のわりに妙に落ち着いた大学生を1人雇う。

店に入るドアの前には、大きすぎないブラックボードにメニューを貼り、イラストを描く。ドアの前は箒をかける。ふとしたときに季節の移ろいを感じる仕組み。客が入らなかったら、カウンターの中で別の仕事をする。

店の名前はまだ決めない。実際に開くときにじっくりと決めよう。

帰りに通り過ぎたユニクロで異常なほど行列ができてて二度見した。

ニットとか安すぎるもんな。

 

ところで2014に出たKiller Bongの“Brooklyn Dub”を聴きまくっている……。

Killer Bong a.k.a K-Bomb a.k.a 無数の名前……の、このネオCityのジプシーブラッククリエーターはどす黒くて底知れない魅力を充満させている。いまさら俺が紹介するまでもない。

さまざまな変名を使って音源を生成しまくるKBは、ヒップホップ、ダブ、ジャズ、サイケ等々のフリー・イズムをちゃんぽんして煮込んだカレー。名前もそうだけど自分の“スタイル”に固まらずアメーバ状に変異する音の峰不二子

2006年のTOKYO DUBも相当良かったけれど10年代入ったくらいからのKBの叙情性というかさらに寒ーい深ーいところに沈んでゆくサウンドが。

KBに限らずサンプラーやラップトップによる編集音楽が音のデザインを性急に書き換えてゆくさまが。

Tokyo Dub

Tokyo Dub

 

 

電気消して風呂に入るの超好き。給湯器の穏やかなランプだけぼんやりついてて。俺たち街灯に慣れすぎてるけど普段してることを電気消してやるとやっぱり夜がしがみついてくるからね。

昔の人が妖怪とか鬼とか怨霊とか信じてたのはマジだ。

夜にしがみつかれると本当に想像力が暴走していくから。

今の俺たちには逃げこめる光があるけど。

岩手の夜、山道を迷いながらじわじわ日が暮れていった時間は、ひんやりした。

 

そういえば傘をなくしてしまったので次はどんな傘を買おうか。折りたたみのほうが置き場所に困らないとは思う。

テキトーに買うビニール傘ではなく、イカしたデザインの長傘に憧れる気持ちもあるけど。傘泥棒だらけのこの街で? どうせまた忘れるし。

FRAPBOISのビニール傘を買うか迷ったこともあるけど今思えば買わなくて全然よかったな。

 

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それにしてもポエティックな文が好きだ。ガラス瓶に入れて海に流す断片や、インターネットで闇雲に書き散らすテキストに似ている。虚空にむけて投げているから。

「あなた」や「あなたたち」に向けた言葉にはコミュニケーションが生まれてしまって、詩情は邪魔になる。情報や意思疏通を前提としない言葉、人間味や感情から(半歩くらい)離れて言葉が言葉のままおどりをおどるのが詩だと思っているから。

日記はその線引きの真上で、ひらひらと不安定に舞っている。

 

靴はなるべく重いほうが好きだ。

 

LINEで送られてくる渓谷、大景色、山小屋の写真をスワイプして眺めながら、滋養に満ち足りた山岳の空気を想像してみる。